この素晴らしき世界



- 92nd down「日本一のパス」 -

 空気の薄い山頂を目指したマラソンにも桜庭はペースを乱さず走れるようになってきた。進と同じトレーニングメニューをこなす体は、例えつけ刃的だとしても、きちんと強くなっていっていた。
 昨日より強く、明日はもっと強い自分になる。

 次々とチームメイト達が山頂にやって来た。
 今頃になって桜庭の膝が震えだし、手の中の受け取ったアメフトのボールの意味の重さを感じた。
 桜庭はそのまま座り込み、でこぼこの石の地面に寝転んだ。
 澄んだ青い空は宇宙か海のようであり、地球ではないような気にさせた。そう感じるのは空気の薄さのせいか、植物の少ない岩場のせいか。
 見上げた青い青い空に吸い込まれそうにな、沈んでいきそうにな気がした。

「高見さんは、どこか遠くに行きたいって思ったことって、なかったですか?」
「・・・遠くねえ」
 高見は桜庭の横に腰を下ろした。積んであって小石がバランスを崩し倒れていった。
「俺はね、いっつも思ってましたよ。それに一度、行っちゃったし」
 乾いたような笑い洩らした。
「俺は商品だから大事されて、そのままテングにでもなっちゃえばよかったのに。でもなれなくて。スタッフさんには好かれてましたよ。いや、本当に。わがまま言わないいい子だーって」
 軽く話されているが、桜庭の中でずっと底に沈んでいた、誰にも言えなかったことだった。
「でもねー、ダメだったんです。初めっから順調に仕事も来て売れていってるのに、地に足がついてなくってフラフラしてる感じで。でもそれが売りにもなったのかもしれないですねー。ほっとけない、頼りないってよく言われました。
 ―――遠くに来たのに、俺、ずーっとアイツを探してたんですよ。
 ここじゃないどこかに・・・アイツのいないところに行きたかったのに、いなかったら・・・物足りなかった・・・」
 空を見上げている桜庭は、空よりも遠いものを見ているようだった。
 
「『遠く』というのは、ゆくことはできても、もどることのできないところだ。 って本で読んだことがある。桜庭が行ったのは『遠く』じゃないんだよ」
 ぽつりと高見は桜庭の方を見ないで話しかけた。
「じゃあ、どこに行ってたんでしょうね?」
「迷ってたんじゃないか」
「迷子ですか」
「よく言うだろ、おうちに着くまでが遠足ですって」
「そーかなー」
 少し笑いを浮かべたような桜庭の頭を、ぽんぽん、と軽くたたくと高見は優しく言った。

「だから ――― おかえり、桜庭」

 昨日、高見と監督達が桜庭のことを話していたのを聞いてしまった。
『だからずっと待ってたんだ』
 桜庭にとってそれは思いもよらない言葉だった。

「・・・帰って、きても、いいんですか?」
 桜庭の目から涙が溢れていく。
「あたりまえだろ」
 高見は、嗚咽を噛み殺そうとする桜庭に気付かないふりをした。そしてあやすように何度も頭を撫でるのだった。


■遠くの定義は、長田 弘の「あのときかもしれない」という詩より。
04/08/06 ★ MAGIC CHANNEL / キル