この素晴らしき世界



- 92nd down「日本一のパス」 -

 もうすぐ明日に変わろうとしている時間に、桜庭は富士山近くにある王城合宿所をこっそり抜け出した。
 少し前に雨が降り、空気は湿り気をおびている。道端の草木の葉に溜まった滴が月明かりの元、光って見える。
 山に近いここでは朝と夜の温度差が激しく、涼しいというより肌寒い風が吹いている。
 砂利道をサンダルが歩く音が大きく聞こえ、草むらの虫の音が一瞬とぎれ、再びあたりから響いてきた。
 町までは離れているわけではないが、桜庭はことさらゆっくり歩いていた。
 道には街頭がぽつん小さな明かりを灯している。
 明かりの下を通り過ぎる時、小さな虫とすれ違う。虫は明かりにぶつかり、コツコツという音を立てている。

 桜庭の右手には、ジャリプロへの辞表の手紙があった。
 まだ契約が色々とあるかもしれない。
 合宿中の桜庭を連れ去ろうとしたミラクル伊藤のこともある。
 不安は大いにあった。

 だが赤い郵便ポストに入れるのはあっという間だった。
 ポストの底に届いた小さな音が聞こえ、桜庭は深く深く息を吐き出した。
 そして。
 肩の力が抜けて。
 膝が笑って、しゃがみ込んで、膝の間に顔を埋め、笑って、泣いた。



 少しして顔を上げると、遠くに月と満天の星空が目に映った。
 世の中の大半の人はもう眠っているのだろうか。人家の明かりも少なく、山に近い場所なだけに、小さな星が瞬くように輝いていた。
 ここに来る前にも夜空は見ていたはずなのに、まるで違うモノのように見えた。
 ―――空が高く、無限に広がっているようだった。



 こんなに夜空がきれいなことを、桜庭は進に教えたくなった。
 星がこんなにきれいなこと。
 こんなに世界が美しいこと。
 自分がアメフトが好きだったこと。
 高見さんが待っててくれたこと。
 ―――進に勝ちたいこと。
 進といろいろと話をしたくなった。

 手を伸ばせば、星がつかめそうなことを、進に教えたかった。


04/06/22 ★ MAGIC CHANNEL / キル